2013年9月30日月曜日

『ウェブ社会のゆくえ―<多孔化>した現実のなかで』読書会 まちライブラリー@大阪府立大学

9月28日に大阪のまちライブラリで開催された「ウェブ社会のゆくえ―<多孔化>した現実のなかで」の読書会に参加してきました。
















当初は関西クラスタ主催のイベントとして、社会学者の鈴木健介さん(著者)を囲んでの小規模な読書会になりそうな感じだったのですが、最終的にTBSラジオの文化系トークラジオ Lifeとの共催ということになって、当日の会場には社会学者たちのほか、ラジオ関係者、編集者、ライター、高校教師、学生など80名ほどの方が参加されていました。

モバイルデバイスとソーシャルメディアの普及によって、いま自分がいる場所に直接関係のない情報が入り込んでくるようになった(これを情報とつながる現実空間にできた穴をイメージして多孔化と呼んでいる)ことが、これまでその空間にあった意味を上書きしようとしている。

例えば、恋人や友人と会っている時にスマートフォンでそれ以外の人とのコミュニケーションを優先してしまうようなことや、教室でいうと静かな授業風景のように見えて実は裏では活発な雑談がLINEなどを使って行われてるといったようなことで、こうした現実に空いた情報の穴を権力のような大きな力で塞いでしまうこともできるけど、そうではなくてこのまとまりのない状態のまま、何か別のものでもう一度まとめていくことはできないのか?という問いかけが本書にあるメッセージのひとつ。(だと思っています)


これまで社会学に触れたことがなかったので、読書会での意見交換も議論の方向性にどこか違和感を感じてたんですが、トークセッションでの社会学っていうのは具体的処方箋を考えるための材料を提供すること、一時期は処方箋を提示することがダサいみたいな風潮があったなんて話を聞くにつれて、ようやく感じていた違和感の理由が、(普段所属している)システムデザインだとかウェブアプリケーション開発といった分野との ”話の落とし所の違い” にあるんだと気づいた次第です。

短い時間ではありましたが社会学というものに触れて感じたことは、社会学っていうのは音楽のようだということです。いま起こっているあるテーマに対して過去からの知識の蓄積(音楽でいうコード進行かな)を踏まえつつ、それぞれの学者のアイデンティティやメッセージを付け加えていってひとつの論(楽曲かな)をつくることで、それ自身が何かを直接解決するのではなくて、それを聞いた人の共感や、別の考えへの発展、ときに何かの具体的な行動へとつなげていくと。

東日本大震災の時にミュージシャンに対して歌ってないで現地に行けみたいな意見がありましたけど、読書会で感じていた違和感そのままで、それぞれの落としどころの違いみたいなものが現れていたんだ-と思い返しました。

個人的には、具体的に落とし込むことの方が性格にあっているんだと実感できたよい機会にもなりましたし、これだけの人が集まっていながら、机に一台もノートパソコンが出ていない集まりっていうのも驚きでしたし(文系イベントだから?)、いろんな分野の方とお話できて1日通して得ることが本当に多くて楽しかったです。

東海でも開催されることを切に願っています。
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